千葉道場

北辰一刀流兵法千葉道場は、今から約165年前の1848年(嘉永1年)頃、開祖千葉周作の弟千葉定吉平政道により作られました。当時では非常に珍しい士農工商の別け隔てない道場だったため、上士、下士、農民、商人から女性、子供に至るまで瞬く間に門人を増やします。すぐさま手狭になり、隣にあるすでに閉塾していた東条一堂塾を買い取り、拡充しました。 1853年(嘉永6年)、小栗流師範であった坂本龍馬が土佐藩の許しを得て千葉道場門人となります。龍馬は千葉定吉とその息子で二代目の千葉重太郎より教えを受けました。そして2年後1855年(安政2年)10月2日、かの安政の大地震が発生します。死者7000人に及んだと言われ、千葉道場も地震による火災を免れることはできませんでしたが、道場の経営良好により翌年には桶町に再建し、通常稽古を再開しています。

 

Chiba Sadakichi

千葉定吉平政道

明治時代(1868〜1912)には、三代目千葉東一郎による千葉撃剣会が隆盛を極めました。木刀と竹刀を用いた試合の様子は、浮世絵界の革命児と称され幕末から明治初期にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年(1839〜1892)が木版画に収めています。作品右下で座りながら薙刀の試合を眺めるのが東一郎、薙刀の使い手は、千葉の鬼小町と言われた定吉の娘千葉さなです。さなはその優美な姿にもかかわらず、闘いを挑んだ者達を端から破っていったほどの腕の持ち主でした。

 

Holzstich des Chiba-Gekikenkai der Meiji-Zeit

北辰一刀流兵法千葉道場は誰にでも分かりやすい教授法で門人を瞬時に獲得しましたが、時代の流れに逆らえず大正時代(1912〜1926)四代目千葉束をもって閉館します。剣に代わる現代剣道の興隆は剣術人口のさらなる減少に拍車をかけ、どの流派も道場の維持費を賄うことさえも困難を極める状況でした。当流も例にもれず、千葉家は鍼灸院を開いて生計を立て始めます。千葉束の息子と孫である千葉鶴太郎、千葉晃は北辰一刀流兵法を修めたものの道場を構えて教授することは途絶えてしまいました。

 

Kanban

ところが約100年を経た2013年(平成25年)7月1日、北辰一刀流兵法千葉道場は再興します。北辰一刀流兵法の技と教えは、他の道場で継承され、確かに生き続けていたのです。千葉道場再興は千葉定吉の直系子孫で第五代宗家の千葉弘政胤が、北辰一刀流辰明会道場で10年以上最高位指導者で免許皆伝の大塚洋一郎政徳を、第六代宗家に任命することで実現しました。

 

大塚洋一郎政徳は、第六代宗家としての3年間、アジアのみならずヨーロッパ、オセアニアなど世界各地に同好会を開くなどして流派のさらなる発展に寄与しました。一方、時を同じくして大塚龍之介政智が道場養子として迎え入れられます。2014年(平成26年)7月には日本様式に則った道場を構え、ミュンヘンに千葉道場が誕生しました。2016年(平成28年)3月26日、大塚龍之介政智が第七代宗家を襲名し現在に至ります。なおミュンヘンの千葉道場は現在本部として運営されておりますが、日本の千葉道場は第六代大塚洋一郎政徳により、引き続き指導が行われております。